沖縄遺骨収集

REPORT8月15日に感じること 前編

2011年8月16日

毎年、815日になるとマスコミ各社は「終戦記念日」「終戦日」と報じる。今日は66回目となる。その度に感じる事がある。1つには「終戦」という表現。語弊があるかもしれないが、「終戦日」という言葉に首を傾げてしまう。あの戦争は負けるべきして負けた。遺骨収集を通し戦争を知れば知るほど何と戦略なき無謀な戦争だったのかと驚く事が多い。詳細は私の著書「自然と国家と人間と」「それでも僕は現場に行く」に書かせて頂いたが、祖父が関わったインパール作戦、そして遺骨収集を行ってきたフィリピン・レイテ島など完全に制空、制海圏を失い、先に上陸していた部隊の多くは戦う前に餓死していった。海軍と陸軍との対立構造の中、互いの情報は隠ぺいされそのおかげでどれだけ多くの兵士が死ななければならなかった事か。
 
 作家の半藤一利氏によれば太平洋戦争の戦闘員の戦死者は陸軍165万人、海軍47万人(
1964年厚生省調査)。このうち、餓死で命を落としたのはなんと約70パーセント。そして海軍の海没者が18万人に対し、陸軍も同じ18万人。つまり、どれだけ多くの船が兵士を乗せ戦地に向かう途中に沈められていったのか。半藤氏は「戦争とは戦場だけで行なわれるのではないのです。兵站と輸送が確保されないと第一線の兵士たちは悲惨な死を迎える事になる」と指摘されている。

 あの大戦の是非を今の時代の感覚で我々が「ああだ」「こうだ」と論じてみてもさほど大きな意味はないのかもしれない。しかし、あれだけ多くの犠牲者を出した大戦。振り返らないわけにはいかない。

 あの戦争は誰が始めたのか。政治家か、軍部か、それとも国民かマスコミか、または天皇陛下か。今では反戦一色の新聞ですが、あの頃(開戦前)、国民にどのようなメッセージを送っていたのか、アメリカとの開戦が発表された時に多くの国民が日の丸を手に高揚していなかったか、政治家たちは軍部の圧力、暗殺を恐れていなかっただろうか、また全ての軍人が戦争を始めたいと考えていたのか、では天皇陛下が戦争を希望していたのか、それに対しては様々な意見があるかもしれないが、答えはNOだろう。故に陸軍を抑え込もうと東條英機氏をあえて首相にしたとも言われている。つまり、一部の誰か、ではなく日本社会全体が日清日露と立て続けに勝利しいつしか我を見失ってしまったような気がしてならない。

 故に日本社会全体であの大戦としっかりと向き合い次の時代に繋げていかなければならないと強く思う。くどくなりましたが、一言で表現すれば「終戦日」ではなく「敗戦日」とするべきではないか。
 何故に「終戦日」となったのか。その経緯をどれだけの人が知っているだろうか。

 終戦直後、東久邇宮内閣に議会を開き、そこで首相自らが国民に向けて戦争終結のメッセージを送る演説を行っている。演説が行われる前の出来事。演説の原稿の中に「敗戦」という言葉を見つけるなり陸軍大臣であった下村定氏が「敗戦ではなく終戦にしてほしい」と注文をつけた。東久邇宮首相は「何を言うか、敗戦じゃないか。敗戦という事を理解するところから全てが始まるんだ」と声を上げたそうです。しかし、結局は軍に押し切られ「終戦」となったとのこと。

 私は「終戦」ではなく「敗戦」ではないかと表現する度に「戦争で戦い亡くなっていった兵士に対し失礼だ」「左翼的発言だ」などと言った声が多く寄せられる。これは考え方の問題かもしれないが、私はそうは思わない。確かに軍部の上層部にはメンツがあったかもしれない。しかし、戦場の最前線で死ななければならなかった兵士たちはメンツよりも本当の真実を伝えてほしいと願っているように感じる。

 
戦艦大和の沖縄特攻で戦死した青年将校、臼淵磐氏の遺言には


「進歩のない者は決して勝たない。日本は進歩という事を軽んじすぎた。私的な潔癖や道義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるのか、今目覚めずしていつ救われるのか」 (一部中略)


と書かれてありますが、死ななければならなかった青年将校の「敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるのか」、まさにこの言葉だと思う。

 
 アメリカやイギリスなどの連合国、つまり戦勝国は「戦勝記念日」と呼び、敗戦国である日本が「終戦記念日」と呼んでいる。これも何かの象徴かもしれないが、戦争に敗れ焼け野原から再出発した日本。戦争を二度と起こしてはならないと肝に銘じるためにも、また何故にあの様な無謀な戦争を起こしたのか、その現実から逃げず直視する為にも私は「敗戦日」とするべきだと感じている。

 

 そして次に首を傾げるのは「終戦」が本当に「8月15日」なのだろうかということ。何を持って終戦にするかの定義の問題かもしれないが、8月14日に日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、翌15日に昭和天皇によって日本が連合国に対し降伏すると国民に公表された。

 つまり日本サイドが「戦争はやめます」と宣言はしたものの戦争とは相手があること、片一方の宣言だけでは「終戦」となるのだろうか。また大本営は8月15日以降の8月19日に、第一総軍、第二総軍、航空総軍に対し「8月22日零時以降、全面的に戦闘行動を停止するように命令した」とされている。また、レイテ島などフィリピンなどの戦地などには戦闘停止命令が届かず8月15日以降も部分的に戦闘が続いていた。8月15日以降も戦闘が続き多くの兵士が戦死しているのだ。

 1945年9月2日、重光外務大臣が昭和天皇、日本国政府の代表として東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ甲板上において降伏文章に調印した。では、「この1945年9月2日が「終戦日」となるのか」と思えば、この降伏文章は「停戦協定」とのこと。降伏文章の内容の中には「休戦に伴う軍事措置」とある。つまり「終戦」ではなくあくまでも「停戦」だ。あの朝鮮戦争も未だ停戦中。故に南北朝鮮は未だに軍事衝突を繰り返している。それが「停戦」と「終戦」の違いだろう(北朝鮮からの挑発ばかりだが)。

 ではいつ「終戦」になったのか。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効によって国際法上、日本と連合国との戦争状態が終結した日となっている。つまり国際法上の終戦は「1952年4月28日」なのだ。だとすると「終戦日は4月28日」ということになる。


(戦勝国は9月2日を対日戦勝記念日とし9月2日を終戦の日とする国が多いとか)

 あくまでも私の無知ゆえの出来事かもしれないが、恥ずかしながら遺骨収集活動を行うまで「いつ戦争が終わったのか」などと考えもしなかった。「8月15日が終戦記念日」と言われるままにそれでスルーしてしまっていたが、「いつ戦争が終わったのか」という基本的な事を知らない、または考えてもいない人は実は私以外にも多いのではないだろうか。

 遺骨収集を始めたのは約5年前。それからというもの8月15日を迎える度にそんな事を繰り返し考えてしまう。「今更、そんな細かい事どうでもいいじゃないか」と言われた事もあるけれど、私にはそうは思えない。「何故に終戦記念日になったのか、その意図は?」「戦争はいつ始まりいつ終わったのか?」、そんなにどうでもいいことなのだろうか。私はその延長線上に、ついには日本と連合国が戦争をした事も知らない人が増えてきているのではないかとさえ思う。これは果たしてこじつけだろうか・・・。


(後編につづく)


2011年8月15日 野口健

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