沖縄遺骨収集

REPORTはじめに

2009年2月19日
20130423155953.JPG2005年5月8000m峰に挑戦した際、山頂直下で天候が急変し最終キャンプに閉じ込められた。テントの中で残りの酸素ボンベンの数を数え、もしこのままの天候が続いた場合いずれ酸素が底をつく。酸素がなくなればそれは死を意味する。最終キャンプでの滞在時間が長くなるにつれ、暗闇のテントの中で「死」を意識し様々なことが走馬灯のように駆け巡った。「もうどうにでもなれ」と、テントの中で寝転ぶが、そう簡単に死ねるわけでもない。その中で、ふと頭をよぎった事があった。それは先の大戦で亡くなられた方々についてであった。 1973年生まれの私は当然、戦争体験はない。しかし、おじいちゃん子だった私は幼いころから祖父野口省己から戦争の悲惨さを直に聞いていた。祖父は第33軍参謀(陸軍大学校56期)として、ビルマのインパール作戦に参加をしていた。この作戦は白骨街道と呼ばれたほど多くの犠牲者を出した。奇跡的な生還を果たした祖父はよく「多くの部下を無駄死にさせてしまった。俺の前で兵士が飢えで倒れても何もしてやれなかった。歩けなくなった兵士には自決用の手榴弾を渡さなければならず、竹でお尻を叩いて無理やり歩かせた。英国軍に追われシッタン川を越えなければならなかったのだが、多くの兵士たちが私の前で濁流に流されていった。最初は一人、二人と数えていたが、次から次へと兵士たちが『助けてください』と叫びながら流されていった。途中から人数すら数えられなかった。助けるすべもなくばたばたと死んでいく兵士の姿、悲鳴は戦後50年経っても脳裏に焼き付いている。戦地は地獄だった。それに比べ俺は孫に囲まれ長生きしている。生き残って申し訳ない」と繰り返し言っていた。 マイナス30度の強風の吹きすさぶテントの中で、ふと祖父からの話を思い出し「死」を前にして、寒さではなく恐怖で震えが止まらなかった。好きな山に登っているにもかかわらず、「死」を目前にして見苦しいほど取り乱していた。持っていた紙に家族へのメッセージを書いたが、持っていた紙では書き足らずテントやマットにまで書き続けていた。書き続けることによって、どこか家族とつながっているのだと安堵していたのかもしれない。死を全身で感じればその分だけ生に対する執着心が強まる。 それに比べ、戦争で亡くなられた方々の多くが赤紙一枚で自分の意思とは関係なく戦場に派兵された。彼らは過酷な戦地で死を目前に何を想ったのか。明けても暮れても絶え間なく続く連合軍や対日ゲリラとの戦闘の中で命を奪われる。武器や食料が尽き、次第に追い詰められ、洞窟の中で自害した方々や、マラリアや栄養失調で死を迎えた方々もいただろう。人と人が殺しあうという恐怖の連続の中で、先人たちの目には何が見えたのだろうか?また、先の大戦で亡くなられた方々のご遺骨が未だに各地に放置されたままだとも聞いていたのをふと思い出し、暗いテントの中、酸欠の影響で思考能力が衰えていきながらも、もし無事に帰国できるようであれば、遺骨収集に行きたいとの思いが芽生えた。 これには、幼少時代に過ごしたエジプトでの光景も影響していた。国境付近のエルアラーメンに出かけた際、砂漠の中に突然、英国軍の無名戦士の墓が現れた。この地は英国軍とドイツ軍がはげしく戦った場所で、ロンメル将軍に率いられカイロを目指して怒涛の進撃を続けるドイツ軍に対し、スエズ運河を失ってはならないと英軍は必死に戦った際の犠牲者が眠る無名戦士の墓だった。こんな砂漠のど真ん中に突然現れる建物の存在に驚き、その建物の管理が行き届いていることに二重に驚いた。歴史の事はよくわからなかったが「戦争で亡くなった人たちを大事にしている」という事だけは伝わってきた。 幸運にも天候は回復し、ヒマラヤから生還することが出来た。帰国後、戦没者遺骨収集事業について調査をし、フィリピンのセブ島、レイテ島、ボホール島などでの遺骨収集活動が始まった。収集活動をしているうちに知人から沖縄県で50数年間、一人で遺骨・遺品収集をされている国吉勇さん(那覇在住74歳)を紹介された。この方は、沖縄決戦で逃げ惑う中で母親とはぐれ、戦後、県内の収容所で母親の亡骸にであった経験を持つ。「亡くなっていたけれど、母に会えたという安堵感と遺骨と対面した時の安心感は忘れられない。これが遺骨収集の切っ掛け。みんなは、壕の中を掘ってまで探さない。だから自分が見つけてやらないと。暗い壕の中で60数年いるよりも、ご遺骨にも空を見せてあげたいじゃないか!」     RIMG0084.JPG     国吉さんには母の遺骨と巡り合えた時の嬉しさが実感としてある。だからこそ、埋もれていたままのご遺骨・遺品を探さずにはいられないという言葉に心を揺さぶられ、またこの活動に共感して沖縄での遺骨収集を開始した。2010年11月25日に初参加した活動では住宅地からさほど遠くない防空壕跡で有志15名とともに行った。短時間の活動にもかかわらず、ご遺骨八柱、手榴弾・照明弾・迫撃砲などが次々に出てくるのを目の当たりにして、戦争はまだ終わっていないと実感した。 その後も、12月10日、2011年6月26日と地元の方々が実施をする遺骨収集活動に参加してきた。2012年2月15日には野口健事務所主催で初めて「野口健と行う遺骨収集活動」を実施し、10都道府県から25名の参加者が集まった。この活動は6月28日、29日に第2回、10月9日、10日に第3回、2013年3月5日、6日に第4回が実施された。 尚、活動中に見つけられた遺留品に関しては、分かる範囲でご遺族のもとに届けられる。 ご遺骨に関しては、地元警察へ通報をし、事件性がないと判断された後に沖縄県平和祈念財団内の遺骨収集センターに預けられる。沖縄県平和祈念公園内安置所に保管後、医師の鑑定を経て、ご遺骨と判断されたものは火葬し沖縄県国立戦没者墓苑に埋葬される。 沖縄県の発表では未だに収集されていないご遺骨が3000体を超えるという。2011年8月に財団法人平和祈念財団内に沖縄県戦没者遺骨収集情報センターが開所し、国・県・市町村・民間が連携を取れる仕組みが出来上がった。今後も関係機関と連携を取りながらこの活動を続けていきたい。

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